このたび余輩の故郷中津に学校を開くにつき、学問の趣意を記して旧く交わりたる同郷の友人へ示さんがため一冊を綴りしかば、或る人これを見て云く、この冊子を独り中津の人へのみ示さんより、広く世間に布告せばその益もまた広がるべし、との勧めに由り、乃ち慶応義塾の活字版をもってこれを摺り、同志の一覧に供うるなり。
明治4年羊12月
福沢 諭吉
記
小幡篤次郎
既に読まれた方はご存知かと思いますが、「学問のすゝめ」は明治5年2月の第1編を皮切りに
同9年11月の第17編をもって終わり合本として明治13年に出版されています。福沢自らの序にも当時の日本の人口3500万人のうち第1編の真偽版本を22万冊として国民160名の内一人は必ずこの書を読みたる者なり。と記しています。明治13年迄には70万冊が売れたようですので大ベストセラーだったことが窺われます。
最終的には明治期で300万部以上との一部資料もありますので、当時の状況を考えても驚異的な数字です。しかし、驚くのはその数だけではなく、その内容そのものです。
明治初期の知識人(江戸時代に漢学を音読で学んだ人は語学に対する吸収力が高いということを明治大学教授の齋藤孝氏がラジオ番組で発言されていましたが)の見識には驚かされます。
この本の中でも”学問”とはただ単に文字を読むだけのものではなく、有形無形の生きる術を学ぶべきことをそう便宜上使ったというようなことを記しています。
特に第3編では
- 独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず。
- 内に居て独立の地位を得ざるものは、外に在って外国人に接するときもまた独立の権義を伸ぶることを能わず。
- 独立の気力なき者は、人に依頼して悪事をなすことあり。
その言葉は明治の初期ではなくまさしく今求められていることです。”それは自己責任”というような他者と自分自身の距離を保つために便宜上使われる意味ではなく、自分自身の気概を示す意味です。
そして第4編 学者の職分を諭すではこう結論づけています。
今の学者、この国の独立を助け成さんとするに当たって、政府の範囲に入り官に在って事をなすと、その範囲を脱して私立するとの利害得失を述べ、本論は私立に左袒したるものなり。すべて世の事物を精しく論ずれば、利あらざるものは必ず害あり、得あらざるものは必ず失あり、利害得失相半するものはあるべからず。我輩固より為にするところありて私立を主張するに非ず、ただ平生の所見を証してこれを論じたるのみ。
福島の原子力問題でテレビで盛んに安全性を発言していた御用学者の先生にも聞かせてあげたいくらいです。
他にも、第7遍 国民の職分を諭す。第8編 我心をもって他人の身を制すべからず。第11編 名分をもって偽君子を生ずるの論。第13編 怨望の人間の害あるを論ず。第14編 心事の棚卸。第15編 事物を疑って取捨を断ずる事。 第17編 人望論等、今現代に読んでも充分に必要とされるべきことが記されています。
以前、中津城を見に大分を旅したことがありましたが、当時は、まだ「学問のすゝめ」も「文明論之概略」も読んでいませんでした。地方の一下級藩士であった福沢諭吉の先見性には改めて感心させられました。
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