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ひとり旅が好きで国内47都道府県を制覇。数年前に広告会社を早期退職後ぷらぷらしながら行った国。中華人民共和国、中華民国台湾、ラオス、タイ、シンガポール、マレーシア、インドネシア、モンテネグロ、アルバニア、ギリシャ(コルフ島だけ)等。地元の人が食べるものを食べ、美術館を見るのが良いですね!映画に関しては、やはり映画が必要とされていた黄金期の邦画が好き。溝口健二、小津安二郎、成瀬巳喜男、木下恵介、渋谷実、山本薩夫、新藤兼人、増村保造、森一生、三隅研次、久松静児等。 浦島太郎状態で迎えた2011.3.11 自分にできる事は少なく、考えた末除染作業に参加。しかし除染作業も一時中断し、瓦礫撤去作業と考え宮城へ来てみるが瓦礫撤去作業も一段落したようで…
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2011年11月3日木曜日

善の研究 西田幾多郎著(岩波書店)

日本を代表する哲学者、西田幾多郎。京都学派(西田及び田辺元に師事した哲学者たちが形成した学派のこと)の創始者。「善の研究」は金沢の第四高等学校教諭時代に書かれた戦前の日本の学生の必読書とされた哲学書。1911年(明治44年)弘道館から出版。後1921年(大正10年)岩波書店から出版される。

西洋哲学と東洋思想の融合を目指した、日本初の独創的な哲学体系と評価されている。西田は若い時から「禅」に心酔し、仏教思想も深めていた。私生活では結婚後わが子を相次いで亡くし、同時期に、母や妻も前後して世を去り、家庭的には不遇な時代を経験した。京都大学を退官した晩年は鎌倉で思索を続け、敗戦を待たずして1945年(昭和20年)6月死去。

まさしく、これが哲学書というのでしょうか?「いき」の構造どころではない難解な書物です。途中で何度も挫折しながら…戦前の学生はこんな書物が必読書とはレベルが高かったんですね!
私が思うに、明治期に書かれたというだけではなく、言葉の言い回しが独特というのか、哲学的言い回しなのかわかりませんが、スムーズになかなか前へは進みません。

序の中で本人が記していますが、書き上げた順序は第二編、弟三編、第一編、そして第四編ということだったようです。初めて読む人には、第一編を飛ばして、第二編がこの書の骨子であると述べ、更に第三編「善」は第二編の考えを基に論じた物で、独立した倫理学と見ても差し支えないと記しています。第四編は病中の作で不完全であるが、哲学の終結である宗教について記したと。

そう考えると、書かれた順番に読み返すと存外、スムーズに読破できる(わけないですね?)

私が少し理解できそうなのは、第一編、第一章 純粋経験のこの所

他人の意識は自己に経験ができず、自己の意識であっても、過去の想起、、現前であっても、これを判断した時は既に純粋の経験ではない。真の純粋経験は何らの意味もない。事実其儘の現在意識あるのみである。(中略)記憶においても、過去の意識が直ちに起こってくるのでもなく、従って過去を直覚するのでもない。過去と感じるのも現在の感情である。抽象的概念といっても決して超経験的のものではなく、やはり一種の現在意識である。

私も昔から、時間(未来・現在・過去)の概念、運命、偶然という事象に興味があり、行き着く所はやはり哲学的な自己の経験という概念の中で起こうるべき事実だけなのかも知れません。
                                 


 目次
  1. 第一編 純粋経験
    1. 第一章 純粋経験
    2. 第二章 思惟
    3. 第三章 意志
    4. 第四章 知的直観
  2. 第二編 実在
    1. 第一章 考究の出立点
    2. 第二章 意識現象が唯一の実在である
    3. 第三章 実在の真景
    4. 第四章 真実在は常に同一の形式を有
    5. 第五章 真実在の根本的方式
    6. 第六章 唯一実在
    7. 第七章 実在の分化発展
    8. 第八章 自然
    9. 第九章 精神
    10. 第十章 実在としての神
  3. 第三編 善
    1. 第一章 行為上
    2. 第二章 行為下
    3. 第三章 意志の自由
    4. 第四章 価値的研究
    5. 第五章 倫理学の諸説其一
    6. 第六章 倫理学の諸説其二
    7. 第七章 倫理学の諸説其三
    8. 第八章 倫理学の諸説其四
    9. 第九章 善
    10. 第十章 人格的善
    11. 第十一章 善行為の動機(善の形式)
    12. 第十二章 善行為の目的(善の内容)
    13. 第十三章 完全なる善行
  4. 第四編 宗教
    1. 第一章 宗教的要求
    2. 第二章 宗教の本質
    3. 第三章 神
    4. 第四章 神と世界
    5. 第五章 知と愛

2011年11月2日水曜日

「いき」の構造 九鬼周造著(岩波文庫)

前回取り上げた岡倉天心と因縁のある九鬼周造の代表作です。1930年(昭和5年)岩波書店より出版。父親は九鬼水軍の末裔で明治の文部官僚を代表し、初代駐米公使を務めた九鬼隆一男爵。母親は星崎波津子(初子)。波津子は花柳界にいたとの説もあり、九鬼周造も学生時代から、東京の江戸花柳界で遊び、京都帝大教授時代の二番目の妻は祇園の芸妓の女性でした。天心と波津子の恋愛?が原因で九鬼と離婚後、天心との妻との確執の末、精神に異常をきたし、母親は非業の死を遂げます。そんな関係から、九鬼周造は幼少期の頃、自宅に来る天心を父親のように思っていたようです。そんな背景があり、日本民族にとっての独自の美意識をあらわす語「いき(粋)」とはなにかということを自身の体験から深く掘り下げることが出来たのかも知れません。

日本の伝統風習文化が身近ではない北海道に生まれた私にとってはかなり難解な書籍でしたが、「いき」の芸術的表現にでてくる日本独自の微妙な色の呼び名の豊かさにあらためて驚きました。色の表現にしてから既に”いき”です。

そして、表紙にもある図解の説明には感心しました。

まずは直六面体の正方形をなす上下の両面を、底面を人生的一般性。上面を異性的特殊性と考え、八つの頂点に八つの趣味を置く。対角線によって結び付けられる趣味は相対立する一対になる。

上面は、渋み━甘み、野暮━意気。底面は、地味━派手、上品━下品。更にそれぞれの頂点を正方形の各辺によって結び付けられた頂点、意気━渋み、側面の矩形において対角線によって結び付けられる頂点、意気━派手、直六面体の側稜によって結び付けられた頂点、意気━上品、直六面体によって結び付けられた頂点、意気━下品等と常に何らかの対立を示していて、その対立の原理を対自性と対他性と捉え、対自性の対立は価値判断に基づくもの。対立者は有価値的と反価値的との対照。対他性の対立は価値とは無縁な物で対立者は積極性と消極性にわけることができると考える。

かなり混乱してきました!そして、底面の正方形の二つの対角線の交点をOとし、上面の正方形の二つの対角線をPとして、この二点を結びつける法線OPを引いてみる。

この相交わる直線が、意気━上品の矩形は有価値性を表し、野暮━下品の矩形は反価値性を表し、甘み━派手は積極性、渋み━地味の矩形は消極性を表す。

更に、そこから話が「さび」とはO、上品、地味のつくる三角形と、P、意気、渋みのつくる三角形とを両端面に有する三角柱。この三角柱の形こそが民族としての趣味上の最大の特色である。

「雅(みやび)」とは上品と地味と渋みとのつくる三角形を底面とし、Oを頂点とする四面体の中に存在する。

「味」とは甘みと意気と渋みとのつくる三角形で表す。

「乙(おつ)」とはこの同じ三角形を底面とし、下品を頂点とする四面体に位置するもの。

「気障(きざ)」は派手と下品とを結びつける直線状にあるもの…

なんだかこの図形は物凄い発見のように思われました。

九鬼周造は結論として、「いき」は武士道の理想主義と仏教の非現実性とに対して不離の肉体的関係に立っている。運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」であると。

そして、人間の運命に対して曇らざる眼をもち、魂の自由に向かって悩ましい憧憬を懐く民族ならずして媚態をして「いき」の様態を取らしむることはできない。

ドイツ、フランスをはじめ8年間のヨーロッパでの勉学の末やはり興味の対象は日本の美と文化に惹かれていく結末は少し理解できそうな気がします。

※他にこの文庫には「風流に関する一考察」「情緒の系図」が収められています。





2011年11月1日火曜日

茶の本 岡倉覚三著・村岡博訳(岩波文庫)

原題:THE BOOK OF TEA 1906 Kakuzo Okakuraを1906年フォックス・ダーフィルド社出版(アメリカ ニューヨーク)から出版。その後、フランス語訳、ドイツ語訳が出版される。これは The Ideals of the  East-with special reference to the art of japan 1903邦題:「東洋の思想(東邦の理想)」 ジョンマレー書店(イギリスロンドン)から出版。          The Awakening of Japan 1904 邦題:「日本の目覚め」ジョン・マレー書店(イギリス ロンドン)及センチュリー会社(アメリカ ニューヨーク)より出版に続く英語著作の第3弾。日本語訳が出たのは1929年(昭和4年)の当岩波文庫版が初めて。本名の覚三より天心(臓の手術の痕がの字に見えたそうです)の方が馴染み深いですね。天心は貿易商の父の許で横浜に育ったこともあり、幼い頃より英語に慣れ親しんだそうです。





当文庫の解説を書かれている福原麟太郎(英文学者)氏の解説文が簡潔明瞭ですのでそのまま引用させて頂きます。

茶の湯によって精神を修養し、交際の礼法をきわめるのが茶道である。その理想は、禅でいうところの「自生了解」の悟りの境に至ることである。この本は、そうした「茶」を西洋人に理解させるために著者が英文で書いたもので、単なる茶道の概説書ではなく、日本に関する独自の文明論ともいうべき名著。

第1章 人情の碗

第2章 茶の諸流

第3章 道教と禅道

第4章 茶室

第5章 芸術鑑賞

第6章 花

第7章 茶の宗匠

僅か67ページの本文ですが、内容は深いものがあります。がしかし、各章にはそれぞれ要約というか、ポイントなるべきフレーズが幾つも記されています。例えば。第4章の茶室では ━茶室は茅屋に過ぎない  ━茶室の簡素純潔 ━茶室の構造における象徴主義 ━茶室の装飾法 ━外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂  といった具合に。

まあ私たちも、実際は、紅茶やコーヒー(それ以外も多々あるので…)を飲むときにでも、お茶にしようかと言いますよね?今の若者はどうなのでしょうか?私が会社員時代には、同僚や部下には外勤営業の途中でカフェに入る場合でも「茶でもどう?」が合言葉でしたが…

旅先で知り合ったイギリス人はやはり紅茶党で一日何度も大きなマグカップで飲むと言っていました。まあ、コーヒーも飲まないわけではないようでしたが。実際、ロンドンのB&Bにも室内にはティーパッグの紅茶がわんさかと用意されていましたの思い出しました。お茶は単なる嗜好品の飲み物というよりは、やはりその国々の文化や伝統を引きずっている習慣のような行為なのかも知れません。

私は正式な茶会の経験はなく、体験講座に何度か参加したことがありますが、正座が苦痛な人間で正式には作法を習い損ないましたが、今更ながら後悔しています。

2011年10月31日月曜日

映画「人間」の原作「海神丸」野上弥生子著(岩波文庫)

野上弥生子の初期を代表する短編小説。1922年(大正11年)春陽堂から出版。その後1929年(昭和4年)岩波文庫から出版。1917年(大正6年)に実際に起きた高吉丸の海難事件をモデルにした物語。極限状況におかれた人間のすさまじくも哀しい姿を冷徹なタッチで描いた作品。後日物語に記されているように、野上の生家(大分県臼杵市の小手川酒造)に近い下ノ江の漁村から出航した60㌧のスクーナー船が漂流の間に起こした恐ろしい出来事を実弟の小手川金次郎から伝えられたメモにもとづいてわずかに虚構化した野上自身唯一のモデル小説。小手川金次郎は高吉丸の船長である(亀五郎こと)渡辺登久蔵が生家に出入りしていた船頭のひとりだったので事の詳細を聞いていたようです。
事件から52年後、野上は高吉丸を救助した慶津丸の当時の船員から電話を受け、後日対面し、当時の状況を改めて聞くことになります。その内容は1968年(昭和43年)6月号の「文学界」に掲載されたようで、この文庫にも転載されています。
 
私は先に映画を観てから原作を読んだのですが、とても興味深い内容でした。原作は僅か66ページの内容を映画では117分に描いています。新藤作品には以前から興味があり、一番好きな「裸の島」の次に撮った作品がこの野上弥生子原作の映画「人間」です。経営が厳しい独立プロダクションにあって近代映画社もまた例外ではなく、低予算で撮った「裸の島」がモスクワ映画祭のグランプリを受賞し、世界各国での配給権のお陰で経営的にも一息ついたと自身のDVDでの解説で語っていました。その後も少数精鋭主義の撮影スタイルは変わりませんが…

国内現役最高齢の映画監督として、脚本家としても優れた作品を発表し続けている新藤監督はこの「人間」でも自身が脚本を手がけています。また出演者も新藤作品の常連である俳優で占められています。脇役で名バイプレーヤーとして多くの映画作品に出演している殿山泰司の数少ない主演映画です。


1962年 製作:近代映画協会 配給:ATG  上映時間117分 
                       
監督/脚本 新藤兼人

原作 「海神丸」野上弥生子

撮影 黒田清己

音楽 林光 
 
出演 殿山泰司(亀五郎)

    佐藤慶(八蔵)

    乙羽信子(五郎助)

    山本圭(三吉)

    観世栄夫(金毘羅さん)                                                       
                                                                                         
                                                    



                     

2011年10月30日日曜日

武士道 新渡戸稲造著・矢内原忠雄訳(岩波文庫)

原題:BUSHIDO,THE SOUL OF JAPAN 1899 inazo nitobe  1899年(明治32年)アメリカ フィラデルフィアのThe Leeds and Biddle  Company.より出版。翌1900年(明治33年)英文書籍として裳華房より出版。反響が大きくその後世界8カ国で翻訳出版され、新興国日本を世界に知らしめた功績があったようです。日本語訳版は1908年(明治41年)櫻井鴎村が丁未出版社より出版。漢語調の文体で記されていたため、格調高い内容でしたが漢文の素養のない読者には難解だったようです。1938年新渡戸稲造及び内村鑑三門下生であった矢内原忠雄訳の本書が岩波文庫から出版され、一般に広く知られるようになりました。
序の中にも記されていますが、新渡戸がベルギー滞在時に著名な教授から日本の宗教教育について尋ねられた時に、日本には宗教教育がないという答えに驚いた教授の声を忘れることができず、うまく即答できなかったことと、アメリカ人である夫人の日本の思想、風習に対する疑問に対する答えを武士道という概念を通して新渡戸がヨーロッパの歴史や文学から類例を引いて導き出すという壮大な試みの書です。

ラフカディオ・ハーンやアーネスト・サトウを引き合いに出しながら、「日本に関することを英語で書くのは全く気の引けることである。(中略)もし私に彼らほどの言語の才が、あれば私はもっと雄弁な言葉をもって日本の立場を陳述しようものを!」と述べています。半分本心半分日本人の謙虚さなのかも知れませんが、インターネットがある現在なら知らず、明治時代に諸外国の歴史、文学そして言語を自在に駆使する知力には頭が下がる思いです。

内村鑑三「代表的日本人」もそうですが、新渡戸稲造も「武士道」を通じて、英語で”日本とは何か”を欧米諸国に、キリスト教信徒の彼らが明治のこの時代に挑んだことに大きな意味があることだと思います。明治のキリスト教信徒の知識人にはある種共通の使命感のようなものがあったように思われます。異国の宗教を受け入れた自身の責任にも似た感情を、欧米諸国と日本との架け橋になることによって果たしたいと。

目次:

第1版序  増訂10版序  緒言

第1章 道徳体系としての武士道  第2章 武士道の淵源  第3章 義

第4章 勇・敢為堅忍の精神     第5章 仁・側隠の心  第6章 礼

第7章 誠    第8章 名誉    第9章 忠義       第10章 武士の教育及び訓練

第11章 克己  第12章 自殺および仇討の制度      第13章 刀・武士の魂

第14章 婦人の教育および地位  第15章 武士道の感化

第16章 武士道はなお生くるか   第17章 武士道の将来

ヨーロッパの事例が多く引用されているため、カタカナの人名が頻繁に登場して日本人には違和感があるかも知れませんが、これが逆に欧米人には理解をさせ易かったのかも知れません。また各章も適度な字数でとても読みやすい本だと思います。第12章の自殺(切腹・腹切り)の記述はかなり生々しい場面が現れます。私は武士の血が流れている家系かどうかは定かではありませんから、新渡戸の書いた内容が全て史実に忠実かどうかは判断できませんが、宗教教育がない日本にもそれに匹敵する”武士道”というものがその役割をある意味で果たしたということは理解できました。                                                     

 南部盛岡藩の藩士であっった新渡戸家は三本木原(現青森県十和田市)の開拓に尽力した功績で一族の記念館があります。新渡戸というと岩手のイメージがありますが、十和田市一帯は以前は南部盛岡藩の所領だったからです。祖父の傅、父の十次郎、兄、七郎の三代の親子は協力して荒地を開拓して稲が育つ農地に改良したようです。そして初めて稲が収穫された2年後に盛岡で生まれたのが三男の後の稲造(稲之助をその後改名)です。 

 十和田市立新渡戸記念館                                                                                                                                                                                                         
青森県十和田市東三番町24-1(十和田市駅より徒歩15分)                                                                                      開館時間:午前9時~午後4時                                              休館日:毎週月曜日(祝祭日の日は開館)                                      入館料:一般・大学生210円 小中高生52円
新渡戸稲造親子の銅像

2011年10月29日土曜日

余は如何にして基督信徒となりし乎 内村鑑三著・鈴木俊郎訳(岩波文庫)

原題:How I Became A Christian:Out of my Diary.By Kanzo Uchimura .1895.1893年に完成し、当初アメリカでの出版を試みるが、叶わず1895年(明治28年)5月英文書籍として警醒社書店より出版される。
その後"The Diary of Japanese Convent"のタイトルでアメリカ版が出版され、更に10年後1904年ドイツ語訳版が出版され北部ヨーロッパで知られるようになり、フィンランド語訳版、スウェーデン語訳版、デンマーク語訳版が続けて出版されることになる。1913年(大正2年)「一日本人の魂の危機」としてフランス語訳版がスイスで出版され欧米で多くの人々に読まれることになった。
しかし、日本語訳版は内村亡き後の1935年(昭和10年)岩波書店から単行本として出版されるまで待たなければならなかった。そして1938年同書店から文庫版が出版され日本国内でも広く読まれることになる。




緒言 

余が書こうとしてするのは、余は如何にして基督信徒となりし乎である。何故にではない。いわゆる『回心哲学』は余の題目ではない。余はただその『現象』を記述し、余よりも哲学訓練ある人々に材料を提供するにすぎない。余は早い頃から日記をつける習慣があった。その中には余が自分に臨んだいかなる思想も事件もこれをことごとく記入した。余は自分自身を周到な観察の主題とした。そしてそれは余がかつて研究した何ものよりも神秘的であることを知った。
(中略)そういう記録の一部分が今や公衆に示されるのである。読者はそれから自分の好むいかなる結論を引き出されてもさしつかえない。余の日記は、しかしながら、余が基督教を受け入れたわずか数ヶ月以前に始まるのである。


私も以前日記をつけていた時期がありましたが、今はその習慣は途絶えました.
日記をつける前提として、他人に読まれてもいいように少し美化(脚色)してしまうきらいが私にはありましたが… 緒言のあと内村は自らの生い立ちと自分を形成した祖父母、父母のことを冷徹に記しながら、同時に、幼い時からの漠然とした多神教への疑義の思いを綴ります。
そして札幌農学校で基督教と出会います。内村鑑三の人生前半の自伝的書籍。

目次:

序  緒言

第1章 異教   第2章 基督教に接す  第3章 初期の教会  第4章 新教会と平信徒伝道

第5章 世の中へ 感傷的基督教       第6章 基督教国の第一印象 
 
第7章 基督教国にて 慈善家の間にて

第8章 基督教国にて ニュー・イングランドのカレッヂ生活 

第9章 基督教国にて 神学の一瞥

第10章 基督教国の偽りなき印象 帰国

アメリカ版序文  余の独逸国の友人に告ぐ  フィンランド語版序文  解説   改定版後記




ひとりの人間の真摯でそして力強い心の叫びが、現実と理想の狭間で揺れながら、実直に語られる姿に共感を覚えました。しかし、この時代の、内村をはじめ、新渡戸稲造、岡倉天心と母国語ではない英語で、英語圏の人々を感銘させる書物を書き上げる知力に感服するばかりです。

2011年10月28日金曜日

代表的日本人 内村鑑三著・鈴木範久訳(岩波文庫)

 原題:Representative Men of Japan元題:Japan and Japanese                 1894年(明治27年)11月24日 Japan and Japanese 英文著作として民友社より出版。1908年(明治41年)4月29日 Representative Men of Japanと改題し警醒社書店より出版。1921年(大正10年)同社より改版が出版される。1907年デンマーク語訳出版、1908年ドイツ語訳出版。岩波文庫は1908年出版の警醒社書店初版よりの翻訳。解説にも記されていますが、当初のタイトルで執筆していた時には日清戦争の最中でその後、日露戦争が勃発し、内村自身の思想が「絶対非戦論」のスタンスをとっていたので、その変化にあわせ、当初タイトル版の一部内容を差し替え、本文も訂正とともに大幅に除去され、更にタイトルも変更した経緯があったようです。The land and people. A temperance island of the pacific. Japan :its mission. Justtification of the Corean war. の4編が除かれ、新しい序文とハリス夫人への献辞が加えられたそうです。
                                              
 明治時代の代表的なキリスト教思想家の日本人が選んだ代表的な日本人とは? 

  1. 西郷隆盛(1828~1877)武士・軍人・政治家 
  2. 上杉鷹三(1751~1822)第9代米沢藩主  
  3. 二ノ宮尊徳(1787~1856)農政思想家  
  4. 中江藤樹(1608~1648)陽明学者   
  5. 日蓮上人(1222~1282)日蓮宗宗祖                           
内村鑑三の呟き

自分は二つのJを愛する。ひとつはJESUS CHRIST もうひとつは JAPAN ふたつのJ-イエスと日本。そのどちらをより多く愛するのか、自分は知らない。自分はイエスを信じるが故に日本人に憎まれ、また余りにも 日本的であるが故に欧米宣教師に嫌われる。しかし、私はふたつのJを失うことはできない。

無教会主義思想に辿りついた日本人であるが故のキリスト信徒としての苦悩がよく理解できる言葉です。

そんな彼が選んだ5人の日本人はストイックな生き方をするという共通点があるように思われます。明治の時代から見た時点での視点ですので、現代を生きる人々から見ると評価は別れると思いますが、ある人は殉教者であり、社会の改革者であり、民に幸福を与える伝道者であり、、コミューンのリーダーであり、そして魂の救済者。すべては日本人が持つイエス・キリストらしさなのかも知れません。                   

2011年10月27日木曜日

今こそ「学問のすゝめ」 福沢諭吉著(岩波文庫)

明治5年2月第一編 初版での端書

このたび余輩の故郷中津に学校を開くにつき、学問の趣意を記して旧く交わりたる同郷の友人へ示さんがため一冊を綴りしかば、或る人これを見て云く、この冊子を独り中津の人へのみ示さんより、広く世間に布告せばその益もまた広がるべし、との勧めに由り、乃ち慶応義塾の活字版をもってこれを摺り、同志の一覧に供うるなり。

明治4年羊12月

福沢 諭吉 
        記          
小幡篤次郎                                                                               
 
                             



既に読まれた方はご存知かと思いますが、「学問のすゝめ」は明治5年2月の第1編を皮切りに
同9年11月の第17編をもって終わり合本として明治13年に出版されています。福沢自らの序にも当時の日本の人口3500万人のうち第1編の真偽版本を22万冊として国民160名の内一人は必ずこの書を読みたる者なり。と記しています。明治13年迄には70万冊が売れたようですので大ベストセラーだったことが窺われます。

最終的には明治期で300万部以上との一部資料もありますので、当時の状況を考えても驚異的な数字です。しかし、驚くのはその数だけではなく、その内容そのものです。  

明治初期の知識人(江戸時代に漢学を音読で学んだ人は語学に対する吸収力が高いということを明治大学教授の齋藤孝氏がラジオ番組で発言されていましたが)の見識には驚かされます。
この本の中でも”学問”とはただ単に文字を読むだけのものではなく、有形無形の生きる術を学ぶべきことをそう便宜上使ったというようなことを記しています。   

特に第3編では 
  1. 独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず。
  2. 内に居て独立の地位を得ざるものは、外に在って外国人に接するときもまた独立の権義を伸ぶることを能わず。
  3. 独立の気力なき者は、人に依頼して悪事をなすことあり。 
その言葉は明治の初期ではなくまさしく今求められていることです。”それは自己責任”というような他者と自分自身の距離を保つために便宜上使われる意味ではなく、自分自身の気概を示す意味です。


そして第4編 学者の職分を諭すではこう結論づけています。

今の学者、この国の独立を助け成さんとするに当たって、政府の範囲に入り官に在って事をなすと、その範囲を脱して私立するとの利害得失を述べ、本論は私立に左袒したるものなり。すべて世の事物を精しく論ずれば、利あらざるものは必ず害あり、得あらざるものは必ず失あり、利害得失相半するものはあるべからず。我輩固より為にするところありて私立を主張するに非ず、ただ平生の所見を証してこれを論じたるのみ。

福島の原子力問題でテレビで盛んに安全性を発言していた御用学者の先生にも聞かせてあげたいくらいです。

他にも、第7遍 国民の職分を諭す。第8編 我心をもって他人の身を制すべからず。第11編 名分をもって偽君子を生ずるの論。第13編 怨望の人間の害あるを論ず。第14編 心事の棚卸。第15編 事物を疑って取捨を断ずる事。 第17編 人望論等、今現代に読んでも充分に必要とされるべきことが記されています。

以前、中津城を見に大分を旅したことがありましたが、当時は、まだ「学問のすゝめ」も「文明論之概略」も読んでいませんでした。地方の一下級藩士であった福沢諭吉の先見性には改めて感心させられました。


       

2011年10月9日日曜日

増村保造の世界(監修:藤井浩明 ワイズ出版刊)


映画監督増村保造の世界 ~映像のマエストロ~映画との格闘1947~1986                       
                
 監修:藤井浩明(元大映企画担当。増村監督作品57作品中25作品をプロデュース)

 1999年 ワイズ出版刊(絶版) A4変形500ページ

主な内容:映画論文、映画雑誌などに書いた批評、自作解説、全57作品資料
増村監督と係わった俳優、スタッフへのインタビュー、証言、増村作品の助監督による対談等
増村フアンにとっては貴重な一冊。(私は図書館で借りました・現在43作品鑑賞済み)


増村保造(ますむらやすぞう)1924年山梨県甲府生まれ、1986年死去。東大法学部卒業後大映へ助監督として入社。その後学士入学で東大文学部哲学科へ再入学。溝口健二監督の助監督(新平家物語、楊貴妃、赤線地帯)市川崑監督の助監督(日本橋、処刑の部屋、満員電車)につく。論文が認められ、イタリアのチネチッタ国立映像センターへ留学。帰国後「くちづけ」で監督デビュー(主演:川口浩、野添ひとみ)。

エネルギッシュなスピード感ある演出で期待されるが興行成績は今ひとつ。第二作「青空娘」から若尾文子とのコンビ作品がスタートすることになる。「最高殊勲夫人」「氾濫」「美貌に罪あり」「女経」「からっ風野郎」「偽大学生」「好色一代男」「妻は告白する」「爛」「女の小箱より・夫は見た」「卍」「清作の妻」「刺青」「赤い天使」「妻二人」「華岡青洲の妻」「積木の箱」「濡れた二人」「千羽鶴」。

シリーズものになった「兵隊やくざ」「陸軍中野学校」の両作品も第一作目は増村監督がメガホンを取っている。大映の中では監督としてはプログラムピクチャーばかり撮らされ続ける監督よりは恵まれていたのだろうが、世間の評価は存命中はあまり高くなかったようです。

それは師事した両監督がキネマ旬報社のベストテンランキングの常連であったのに対し、増村監督は、1978年の「曽根崎心中」の2位が最高で、1976年「大地の子守歌」3位、1976年「華岡青洲の妻」5位、1958年「巨人と玩具」10位の全57作品僅か4作品のみのランキングである、必ずしも作品の質とランキングは比例するとは思いませんが、当時の映画好きな人々にもまだその作風が理解されなかったのかも知りません。

実際私も、意識して増村監督作品を鑑賞したのはここ数年で、一昔前にテレビの深夜映画枠で「兵隊やくざ」「陸軍中野学校」「このこの七つのお祝いに」等を監督名を意識せづに見ていたくらいなので…

しかし没後十年で評価が一変し、1996年NHK教育テレビでは二夜にわたり、「ETV特集スピードとエロス 映画監督 増村保造の世界」が放映される。その後2000年にはいってからは全国各地で増村監督特集や回顧上映が頻繁に行われ、日本映画界にモダニズムの息吹を与えた監督として正当に評価されており、今では海外(特にヨーロッパ)でも人気が高いようです。

個人的には「赤い天使」が一番好きです。公開当時はエログロ映画扱いされていたようですが、今では海外でも評価が特に高いようです。若尾文子の従軍看護婦の負傷兵に対する過度な献身やコスプレ?シーンも見ものですが、芦田伸介演じる軍医のニヒリズムもなかなかのものです。芦田伸介は増村監督の遺作になった「このこの七つのお祝いに」にも出演されています。

増村監督は現実の凌駕や情緒に寝そべらない映像つくりをモットーとしていたため、その対極にあった成瀬巳喜男、今井正両監督の作品を批評の中でも厳しく批判されています。まあ、成瀬作品も実は大好きな私は複雑な思いでありましたが…

しかし、映画の主人公が個としての存在を誇示する姿は、潔さを感じ現在の生き方にも通じるものがあります。増村監督は生まれるのが早すぎたのかも知れません。

あれだけコンビを組んでいた若尾文子がプライベートではほとんど付き合いがなかったようでこれといったエピソードがないのが意外な感じでしたが、「セックスチェック・第二の性」で映画初出演した緒方拳(その後三浦綾子原作の「積木の箱」では普通の教師役で出演)は増村監督に対する思い入れは強かったようです。タイトルは強烈ですが、内容はとても興味深いものです。

演出のトーンは後の大映テレビドラマの基調になるような感じです。ご存知の方も多いかと思いますが、「赤いシリーズ」「スチューワ-デス物語」の構成や演出プランを企画したのは増村監督です。映画の「兵隊…」「陸軍…」の一作目のようにそれぞれの初回の演出は増村監督がおこなったようです。それでその流れを他の演出家が引き継いでいく。

映画「黒の報告書」、テレビスペシャルドラマ「黒い福音」で主演し、大映テレビドラマの常連である宇津井健は「赤い衝撃」で手術室の廊下で妻の安否を気遣う夫が極限状態の中で、芸術家の個のエネルギーを爆発するシーンで夫がその場で踊りだす演出を、そこだけ切り取り、バラエティー番組で面白おかしく取り上げるのを批判していたのは説得力がありました。

偶然、数ヶ月前テレビ番組で堀ちえみが「スチューワーデス物語」の共演者と昔のシーンを懐かしむコーナーがあり、期待はしていませんでしたが、ドラマ自体の可笑しさを取り上げるだけで、本人も「一字一句台本のとおりに言わないといけないんです」などと増村監督の名前はおろか出演していた本人も演出意図を理解していなかったことがわかり、テレビに使ったエネルギーを人生の終盤映画に活かせなかったことが他人事ながら悔やまれます。


日伊合作「エデンの園」はイタリア人俳優、スタッフを使い現地スタッフの指摘に従い脚本を大幅に手直ししながら、当時増村監督は体調も芳しくはなく撮影に苦労した様子が窺がわれます。製作の熊田朝男は「エーゲ海に捧ぐ」の製作で名前を聞きますが、元大映の製作主任で、「くちづけ」「巨人と玩具」「不敵な男」「耳を噛みたがる女」(女経の第一話)の担当だった旧知の間柄だった方のようです。

あまり話題にもならなかった作品のようでしたが、ネットオークションで購入して何度か鑑賞しましたが、イタリアへの留学経験があるとは言え、やはり言葉の壁や限られた予算の中でやり繰りした跡が覗き見れます。デビュー作の「くちづけ」を彷彿してしいまいました。あれほどエネルギッシュでテンポのある演出は感じ取れませんでしたが、それ程悪くもありません。

泥棒家族の若い男と裕福な家族の美大生の出逢いから男が刑務所に入り離れ離れになりながらも最後は、増村監督が一貫として描き続けた女性の個としての生命に対する力強さをエンディングに感じ取ることができました。もちろん言葉は違いますがそれは「妻は告白する」で演じた若尾文子の叫びに通じるものがあります。

最後に、シナリオが完成していたにもかかわらず諸事情で映画化されなかった数本の未完成作品を是非観てみたかったと思います。

NHKBSプレミアム「山田洋次監督が選んだ日本の名作100本(家族編)に増村保造監督作品「暖流」が選ばれています。放送日未定


 
巨匠溝口健二監督の想い出を語る在りし日の増村保造監督。
余談ながら奥様は眼科医の方だったそうです。


増村保造監督の口癖    

≪映画監督は旧式の三八銃だけで、熱帯のジャングルの中でひとりぼっちで戦っている兵士のようなものだから















2011年10月8日土曜日

夕張市長まちおこし奮戦記(青野豊作著 PHP研究所刊)


故郷ネタ第三弾です。夕張市長といっても現在の全国一若い、鈴木直道氏ではありません。結果的には現在の状況を招いたと言わざる得ない故中田鉄治氏市制下での記録です。帯には市長と市民の懸命の戦いを描く、衝撃のルポルタージュ!とのコピーが踊っています。

私は故人を誹謗中傷するつもりは全くありませんが、当時の状況を知りうる意味では今となっては貴重な資料なのだと思います。



1987年9月25日初版発行。目次は下記のとおり


  • 1章 我に七難八苦を与え給え(“驀進市長”の誕生)
  • 2章 夕張の火を消してたまるか(中田鉄治の若き日の戦い)
  • 3章 タンコウ(炭鉱)からカンコウ(観光)へ「石炭の歴史村」の建設
  • 4章 北炭夕張新炭鉱が爆発した!(危機を逆手にとってのまちおこし)
  • 5章 カネづくりは首長の仕事だ(夕張式・財政運営術)
  • 6章 夕張市民は夕張のセールスマンであれ(観光おこし、企業誘致のための人づくり)
  • 7章 メロン酒と夕張メロンのうた(夕張特産品によるまちおこし)
  • 8章 壮大なる“大夕張”を目指して(新生・夕張地域おこし計画)

当時はバブル経済の真っ只中であり、私も当時は広告会社の営業担当でクライアントを連日連夜歓楽街へ誘っておりました。一晩で今考えても恐ろしいくらいの交際費を経費で落とせる時代でした。当時まだ27歳でしたが、心の中では世の中が狂っているのかなとふと考えることもありましたが私も時代の波の中で感覚が麻痺しある意味ではバブルという幻想を享受していました。

この本の最終ページには夕張地域全体開発計画図が掲載されており、夕張岳ワールドスキー場?と歴史村の間には、高原電車?が小鹿道路?とともに計画されていたようで改めて驚きの事実です。無論計画は頓挫していますが…

そして5章の中には四苦八苦、火の車の夕張市の台所、夕張市の財政状態、財源不足を承知しての予算編成、市長の政治力で財源調達、カネを作ってこそ政治家だ、地方自治体に倒産はない、中田式超法規経営等の文章が、当時からの苦しい財政状況の姿が垣間見えます。

また、6章の中では著者が(中田氏がワンマン市長になった理由)を尋ねる場面があり、中田氏はこう答えています。(以下は私が主旨を要約した内容ですのであしからず)


夕張には歴史的経緯があり市長よりも炭鉱の労働組合の幹部、委員長が行政の長よりずっと偉かった。行政の役割を担うのは炭鉱の組合幹部であり、商工業者も炭鉱労働者のご機嫌をうかがいながらの時代が長く続き、炭鉱の縮小の中で労働組合も弱体化した中で労組幹部も指導的立場を失い、夕張の中で真の指導者が必要とされ、自分がそうならざるを得なかった。

確かに、炭鉱最盛期には炭鉱以外の職業の子供(市役所職員、自営業者等)はなんとなく肩身が狭いような経験があったように思われます。私も何度かそのようなことがありました。
しかし、当時の人々は隣近所は家族も同然で、強い“絆”で結ばれていたように思います。

ある意味特殊な共同幻想社会の中にいたようにも思われます。親たちは自分たちがなし得なかった夢を子供たちに託し、その子らは炭鉱以外の仕事を選択し、都会での生活を望んだ。人々はこのまま未来永劫炭鉱が栄えることを望んだが、国策により石炭産業は衰退し、その中心である企業はまちから姿を消した。

結果として高度な教育を得た人材は故郷へは戻らず、炭鉱以外の新たなまちづくりを担うべき有為な人材は育たなかった。そして、本来行政を担うべきはずの市役所が長年の慣習の中でその役割を放棄していたツケが結果として中田市制の6期24年の中で形となって表れたのかも知れません。

観光としてのまちここしは決して間違いはありませんが、ロボット大科学館、知られざる世界の動物館、リスクの大きい巨大遊戯施設や怪しげな東山聖苑など陳腐な箱物にこだわるよりは、夕張の大自然を満喫できる体験型の宿泊施設を市内に点在化させたり、住民も利用できるスポーツ合宿基地、のようなリピーターを呼び起こせるタイプのもののほうがましだったのではないかと思います。

そう考えると、それらを提案したコンサルティング会社やそれらの事業に融資した金融会社の道義的責任はどうなのでしょうか?もちろんそれを実行した当時の中田市長の判断ミスが大きいのですが…やはりバブルという時代の波に呑み込まれた結果なのでしょうか?


 神は何故夕張市民に七難八苦を与え給えたのか?


最後に、鈴木直道市長の奮闘をお祈りいたします。

2011年10月7日金曜日

夕張「記憶の道草」(佐藤康雄著:パロル舎刊)

数年前に購入した写真集。著者(写真・文)は佐藤康雄氏。二十数年ぶりに帰郷した著者の当時の複雑な心境が現在(といっても2002年度時点)の夕張と過去の記憶の風景が交差しながら思い出の地を巡る私小説風写真集。実は私も、同時代同じエリアにいました。

若菜小学校、千代田中学校は私の母校でもあります。高校は市内では進学校であった北高ではなく、秀峰夕張岳とシューパロ湖の麓の東高ですが、佐藤氏は私の兄と同学年の方のようです。

当時若菜神社(著書の中では平和神社と表記)と公園の中にあったプールから平和グランドの手前にあった小川と池らしき場所で、私もポンポン船やマブチモーターの潜水艦で遊んでいたのです。

死んだ父が平和保育所の所長をしていた関係で6歳から15歳まで保育所に併設された住居に住んでいました。夜になると民家(千代田1区2区3区)と少し離れていたので両親が不在の時は不安でした。正式な住所は千代田7番地と表記されていたはずです。

懐かしい商店の名前に記憶の断章が呼び起こされたのは言うまでもありませんが、平和炭鉱の抗内火災の鎮火のための注水作業時のサイレンの音の記憶が記されていました。私は小学3年生でしたが、クラスメイトの父親がひとりその中に取り残されていて彼の哀しい顔とその時の鎮魂のサイレンが永く脳裏に焼き付いていました。

まさしくシンクロニシティです。

夕張あの頃の炭都(撮影:安藤文雄 河出書房新社刊)

故郷ネタ第二弾。夕張が輝いていた時代の写真集。撮影者の安藤文雄氏は夕張北高校で教鞭を執った後、曹洞宗の住職をしながら故郷の栄枯盛衰を撮り続ける。私の生まれる以前の写真も多く、母校若菜小学校の当時の生徒の多さに驚愕する。1960年の在校生2000人以上。

小学校の記憶は石炭ストーブの当番を思い出す。当番は二人で石炭庫へ教室の石炭受けの中身がなくなりかけると手がちぎれそうになりながら一斗缶に入った石炭を階段を上りながら運んだ。

火を起こす作業も生徒が担当だったのだろうか?オガクズライターで石炭を燃やした記憶もあるような…三時限目には石炭ストーブの上の蒸発盥の中に牛乳を温める作業もあったのは確かな記憶があるのだが…
 
もうひとつは、絵が下手な私が中央廊下の壁に一度だけ友人のW君の肖像画を描いて貼り出されたこと。

1969年のマラソン大会の写真もある、確か、学年毎にスタートして約2キロの距離を走る。長距離は比較的得意で、いつも10番台を維持していた記憶があるのだが…

5、6年生の担任は五十嵐先生?私が中学生になった時に病気で亡くなられたような記憶が…

若菜神社の写真は1967年と記されている。公園の手前に写ってはいないが平和保育所があった。当時小学2年生でこのあたりは家の前だったので毎日遊んでいた記憶が甦る…