故郷ネタ第三弾です。夕張市長といっても現在の全国一若い、鈴木直道氏ではありません。結果的には現在の状況を招いたと言わざる得ない故中田鉄治氏市制下での記録です。帯には市長と市民の懸命の戦いを描く、衝撃のルポルタージュ!とのコピーが踊っています。
私は故人を誹謗中傷するつもりは全くありませんが、当時の状況を知りうる意味では今となっては貴重な資料なのだと思います。
1987年9月25日初版発行。目次は下記のとおり
- 1章 我に七難八苦を与え給え(“驀進市長”の誕生)
- 2章 夕張の火を消してたまるか(中田鉄治の若き日の戦い)
- 3章 タンコウ(炭鉱)からカンコウ(観光)へ「石炭の歴史村」の建設
- 4章 北炭夕張新炭鉱が爆発した!(危機を逆手にとってのまちおこし)
- 5章 カネづくりは首長の仕事だ(夕張式・財政運営術)
- 6章 夕張市民は夕張のセールスマンであれ(観光おこし、企業誘致のための人づくり)
- 7章 メロン酒と夕張メロンのうた(夕張特産品によるまちおこし)
- 8章 壮大なる“大夕張”を目指して(新生・夕張地域おこし計画)
当時はバブル経済の真っ只中であり、私も当時は広告会社の営業担当でクライアントを連日連夜歓楽街へ誘っておりました。一晩で今考えても恐ろしいくらいの交際費を経費で落とせる時代でした。当時まだ27歳でしたが、心の中では世の中が狂っているのかなとふと考えることもありましたが私も時代の波の中で感覚が麻痺しある意味ではバブルという幻想を享受していました。
この本の最終ページには夕張地域全体開発計画図が掲載されており、夕張岳ワールドスキー場?と歴史村の間には、高原電車?が小鹿道路?とともに計画されていたようで改めて驚きの事実です。無論計画は頓挫していますが…
そして5章の中には四苦八苦、火の車の夕張市の台所、夕張市の財政状態、財源不足を承知しての予算編成、市長の政治力で財源調達、カネを作ってこそ政治家だ、地方自治体に倒産はない、中田式超法規経営等の文章が、当時からの苦しい財政状況の姿が垣間見えます。
また、6章の中では著者が(中田氏がワンマン市長になった理由)を尋ねる場面があり、中田氏はこう答えています。(以下は私が主旨を要約した内容ですのであしからず)
夕張には歴史的経緯があり市長よりも炭鉱の労働組合の幹部、委員長が行政の長よりずっと偉かった。行政の役割を担うのは炭鉱の組合幹部であり、商工業者も炭鉱労働者のご機嫌をうかがいながらの時代が長く続き、炭鉱の縮小の中で労働組合も弱体化した中で労組幹部も指導的立場を失い、夕張の中で真の指導者が必要とされ、自分がそうならざるを得なかった。
確かに、炭鉱最盛期には炭鉱以外の職業の子供(市役所職員、自営業者等)はなんとなく肩身が狭いような経験があったように思われます。私も何度かそのようなことがありました。
しかし、当時の人々は隣近所は家族も同然で、強い“絆”で結ばれていたように思います。
ある意味特殊な共同幻想社会の中にいたようにも思われます。親たちは自分たちがなし得なかった夢を子供たちに託し、その子らは炭鉱以外の仕事を選択し、都会での生活を望んだ。人々はこのまま未来永劫炭鉱が栄えることを望んだが、国策により石炭産業は衰退し、その中心である企業はまちから姿を消した。
結果として高度な教育を得た人材は故郷へは戻らず、炭鉱以外の新たなまちづくりを担うべき有為な人材は育たなかった。そして、本来行政を担うべきはずの市役所が長年の慣習の中でその役割を放棄していたツケが結果として中田市制の6期24年の中で形となって表れたのかも知れません。
観光としてのまちここしは決して間違いはありませんが、ロボット大科学館、知られざる世界の動物館、リスクの大きい巨大遊戯施設や怪しげな東山聖苑など陳腐な箱物にこだわるよりは、夕張の大自然を満喫できる体験型の宿泊施設を市内に点在化させたり、住民も利用できるスポーツ合宿基地、のようなリピーターを呼び起こせるタイプのもののほうがましだったのではないかと思います。
そう考えると、それらを提案したコンサルティング会社やそれらの事業に融資した金融会社の道義的責任はどうなのでしょうか?もちろんそれを実行した当時の中田市長の判断ミスが大きいのですが…やはりバブルという時代の波に呑み込まれた結果なのでしょうか?
神は何故夕張市民に七難八苦を与え給えたのか?
最後に、鈴木直道市長の奮闘をお祈りいたします。
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