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ひとり旅が好きで国内47都道府県を制覇。数年前に広告会社を早期退職後ぷらぷらしながら行った国。中華人民共和国、中華民国台湾、ラオス、タイ、シンガポール、マレーシア、インドネシア、モンテネグロ、アルバニア、ギリシャ(コルフ島だけ)等。地元の人が食べるものを食べ、美術館を見るのが良いですね!映画に関しては、やはり映画が必要とされていた黄金期の邦画が好き。溝口健二、小津安二郎、成瀬巳喜男、木下恵介、渋谷実、山本薩夫、新藤兼人、増村保造、森一生、三隅研次、久松静児等。 浦島太郎状態で迎えた2011.3.11 自分にできる事は少なく、考えた末除染作業に参加。しかし除染作業も一時中断し、瓦礫撤去作業と考え宮城へ来てみるが瓦礫撤去作業も一段落したようで…

2011年10月31日月曜日

映画「人間」の原作「海神丸」野上弥生子著(岩波文庫)

野上弥生子の初期を代表する短編小説。1922年(大正11年)春陽堂から出版。その後1929年(昭和4年)岩波文庫から出版。1917年(大正6年)に実際に起きた高吉丸の海難事件をモデルにした物語。極限状況におかれた人間のすさまじくも哀しい姿を冷徹なタッチで描いた作品。後日物語に記されているように、野上の生家(大分県臼杵市の小手川酒造)に近い下ノ江の漁村から出航した60㌧のスクーナー船が漂流の間に起こした恐ろしい出来事を実弟の小手川金次郎から伝えられたメモにもとづいてわずかに虚構化した野上自身唯一のモデル小説。小手川金次郎は高吉丸の船長である(亀五郎こと)渡辺登久蔵が生家に出入りしていた船頭のひとりだったので事の詳細を聞いていたようです。
事件から52年後、野上は高吉丸を救助した慶津丸の当時の船員から電話を受け、後日対面し、当時の状況を改めて聞くことになります。その内容は1968年(昭和43年)6月号の「文学界」に掲載されたようで、この文庫にも転載されています。
 
私は先に映画を観てから原作を読んだのですが、とても興味深い内容でした。原作は僅か66ページの内容を映画では117分に描いています。新藤作品には以前から興味があり、一番好きな「裸の島」の次に撮った作品がこの野上弥生子原作の映画「人間」です。経営が厳しい独立プロダクションにあって近代映画社もまた例外ではなく、低予算で撮った「裸の島」がモスクワ映画祭のグランプリを受賞し、世界各国での配給権のお陰で経営的にも一息ついたと自身のDVDでの解説で語っていました。その後も少数精鋭主義の撮影スタイルは変わりませんが…

国内現役最高齢の映画監督として、脚本家としても優れた作品を発表し続けている新藤監督はこの「人間」でも自身が脚本を手がけています。また出演者も新藤作品の常連である俳優で占められています。脇役で名バイプレーヤーとして多くの映画作品に出演している殿山泰司の数少ない主演映画です。


1962年 製作:近代映画協会 配給:ATG  上映時間117分 
                       
監督/脚本 新藤兼人

原作 「海神丸」野上弥生子

撮影 黒田清己

音楽 林光 
 
出演 殿山泰司(亀五郎)

    佐藤慶(八蔵)

    乙羽信子(五郎助)

    山本圭(三吉)

    観世栄夫(金毘羅さん)                                                       
                                                                                         
                                                    



                     

2011年10月30日日曜日

武士道 新渡戸稲造著・矢内原忠雄訳(岩波文庫)

原題:BUSHIDO,THE SOUL OF JAPAN 1899 inazo nitobe  1899年(明治32年)アメリカ フィラデルフィアのThe Leeds and Biddle  Company.より出版。翌1900年(明治33年)英文書籍として裳華房より出版。反響が大きくその後世界8カ国で翻訳出版され、新興国日本を世界に知らしめた功績があったようです。日本語訳版は1908年(明治41年)櫻井鴎村が丁未出版社より出版。漢語調の文体で記されていたため、格調高い内容でしたが漢文の素養のない読者には難解だったようです。1938年新渡戸稲造及び内村鑑三門下生であった矢内原忠雄訳の本書が岩波文庫から出版され、一般に広く知られるようになりました。
序の中にも記されていますが、新渡戸がベルギー滞在時に著名な教授から日本の宗教教育について尋ねられた時に、日本には宗教教育がないという答えに驚いた教授の声を忘れることができず、うまく即答できなかったことと、アメリカ人である夫人の日本の思想、風習に対する疑問に対する答えを武士道という概念を通して新渡戸がヨーロッパの歴史や文学から類例を引いて導き出すという壮大な試みの書です。

ラフカディオ・ハーンやアーネスト・サトウを引き合いに出しながら、「日本に関することを英語で書くのは全く気の引けることである。(中略)もし私に彼らほどの言語の才が、あれば私はもっと雄弁な言葉をもって日本の立場を陳述しようものを!」と述べています。半分本心半分日本人の謙虚さなのかも知れませんが、インターネットがある現在なら知らず、明治時代に諸外国の歴史、文学そして言語を自在に駆使する知力には頭が下がる思いです。

内村鑑三「代表的日本人」もそうですが、新渡戸稲造も「武士道」を通じて、英語で”日本とは何か”を欧米諸国に、キリスト教信徒の彼らが明治のこの時代に挑んだことに大きな意味があることだと思います。明治のキリスト教信徒の知識人にはある種共通の使命感のようなものがあったように思われます。異国の宗教を受け入れた自身の責任にも似た感情を、欧米諸国と日本との架け橋になることによって果たしたいと。

目次:

第1版序  増訂10版序  緒言

第1章 道徳体系としての武士道  第2章 武士道の淵源  第3章 義

第4章 勇・敢為堅忍の精神     第5章 仁・側隠の心  第6章 礼

第7章 誠    第8章 名誉    第9章 忠義       第10章 武士の教育及び訓練

第11章 克己  第12章 自殺および仇討の制度      第13章 刀・武士の魂

第14章 婦人の教育および地位  第15章 武士道の感化

第16章 武士道はなお生くるか   第17章 武士道の将来

ヨーロッパの事例が多く引用されているため、カタカナの人名が頻繁に登場して日本人には違和感があるかも知れませんが、これが逆に欧米人には理解をさせ易かったのかも知れません。また各章も適度な字数でとても読みやすい本だと思います。第12章の自殺(切腹・腹切り)の記述はかなり生々しい場面が現れます。私は武士の血が流れている家系かどうかは定かではありませんから、新渡戸の書いた内容が全て史実に忠実かどうかは判断できませんが、宗教教育がない日本にもそれに匹敵する”武士道”というものがその役割をある意味で果たしたということは理解できました。                                                     

 南部盛岡藩の藩士であっった新渡戸家は三本木原(現青森県十和田市)の開拓に尽力した功績で一族の記念館があります。新渡戸というと岩手のイメージがありますが、十和田市一帯は以前は南部盛岡藩の所領だったからです。祖父の傅、父の十次郎、兄、七郎の三代の親子は協力して荒地を開拓して稲が育つ農地に改良したようです。そして初めて稲が収穫された2年後に盛岡で生まれたのが三男の後の稲造(稲之助をその後改名)です。 

 十和田市立新渡戸記念館                                                                                                                                                                                                         
青森県十和田市東三番町24-1(十和田市駅より徒歩15分)                                                                                      開館時間:午前9時~午後4時                                              休館日:毎週月曜日(祝祭日の日は開館)                                      入館料:一般・大学生210円 小中高生52円
新渡戸稲造親子の銅像

2011年10月29日土曜日

余は如何にして基督信徒となりし乎 内村鑑三著・鈴木俊郎訳(岩波文庫)

原題:How I Became A Christian:Out of my Diary.By Kanzo Uchimura .1895.1893年に完成し、当初アメリカでの出版を試みるが、叶わず1895年(明治28年)5月英文書籍として警醒社書店より出版される。
その後"The Diary of Japanese Convent"のタイトルでアメリカ版が出版され、更に10年後1904年ドイツ語訳版が出版され北部ヨーロッパで知られるようになり、フィンランド語訳版、スウェーデン語訳版、デンマーク語訳版が続けて出版されることになる。1913年(大正2年)「一日本人の魂の危機」としてフランス語訳版がスイスで出版され欧米で多くの人々に読まれることになった。
しかし、日本語訳版は内村亡き後の1935年(昭和10年)岩波書店から単行本として出版されるまで待たなければならなかった。そして1938年同書店から文庫版が出版され日本国内でも広く読まれることになる。




緒言 

余が書こうとしてするのは、余は如何にして基督信徒となりし乎である。何故にではない。いわゆる『回心哲学』は余の題目ではない。余はただその『現象』を記述し、余よりも哲学訓練ある人々に材料を提供するにすぎない。余は早い頃から日記をつける習慣があった。その中には余が自分に臨んだいかなる思想も事件もこれをことごとく記入した。余は自分自身を周到な観察の主題とした。そしてそれは余がかつて研究した何ものよりも神秘的であることを知った。
(中略)そういう記録の一部分が今や公衆に示されるのである。読者はそれから自分の好むいかなる結論を引き出されてもさしつかえない。余の日記は、しかしながら、余が基督教を受け入れたわずか数ヶ月以前に始まるのである。


私も以前日記をつけていた時期がありましたが、今はその習慣は途絶えました.
日記をつける前提として、他人に読まれてもいいように少し美化(脚色)してしまうきらいが私にはありましたが… 緒言のあと内村は自らの生い立ちと自分を形成した祖父母、父母のことを冷徹に記しながら、同時に、幼い時からの漠然とした多神教への疑義の思いを綴ります。
そして札幌農学校で基督教と出会います。内村鑑三の人生前半の自伝的書籍。

目次:

序  緒言

第1章 異教   第2章 基督教に接す  第3章 初期の教会  第4章 新教会と平信徒伝道

第5章 世の中へ 感傷的基督教       第6章 基督教国の第一印象 
 
第7章 基督教国にて 慈善家の間にて

第8章 基督教国にて ニュー・イングランドのカレッヂ生活 

第9章 基督教国にて 神学の一瞥

第10章 基督教国の偽りなき印象 帰国

アメリカ版序文  余の独逸国の友人に告ぐ  フィンランド語版序文  解説   改定版後記




ひとりの人間の真摯でそして力強い心の叫びが、現実と理想の狭間で揺れながら、実直に語られる姿に共感を覚えました。しかし、この時代の、内村をはじめ、新渡戸稲造、岡倉天心と母国語ではない英語で、英語圏の人々を感銘させる書物を書き上げる知力に感服するばかりです。

2011年10月28日金曜日

代表的日本人 内村鑑三著・鈴木範久訳(岩波文庫)

 原題:Representative Men of Japan元題:Japan and Japanese                 1894年(明治27年)11月24日 Japan and Japanese 英文著作として民友社より出版。1908年(明治41年)4月29日 Representative Men of Japanと改題し警醒社書店より出版。1921年(大正10年)同社より改版が出版される。1907年デンマーク語訳出版、1908年ドイツ語訳出版。岩波文庫は1908年出版の警醒社書店初版よりの翻訳。解説にも記されていますが、当初のタイトルで執筆していた時には日清戦争の最中でその後、日露戦争が勃発し、内村自身の思想が「絶対非戦論」のスタンスをとっていたので、その変化にあわせ、当初タイトル版の一部内容を差し替え、本文も訂正とともに大幅に除去され、更にタイトルも変更した経緯があったようです。The land and people. A temperance island of the pacific. Japan :its mission. Justtification of the Corean war. の4編が除かれ、新しい序文とハリス夫人への献辞が加えられたそうです。
                                              
 明治時代の代表的なキリスト教思想家の日本人が選んだ代表的な日本人とは? 

  1. 西郷隆盛(1828~1877)武士・軍人・政治家 
  2. 上杉鷹三(1751~1822)第9代米沢藩主  
  3. 二ノ宮尊徳(1787~1856)農政思想家  
  4. 中江藤樹(1608~1648)陽明学者   
  5. 日蓮上人(1222~1282)日蓮宗宗祖                           
内村鑑三の呟き

自分は二つのJを愛する。ひとつはJESUS CHRIST もうひとつは JAPAN ふたつのJ-イエスと日本。そのどちらをより多く愛するのか、自分は知らない。自分はイエスを信じるが故に日本人に憎まれ、また余りにも 日本的であるが故に欧米宣教師に嫌われる。しかし、私はふたつのJを失うことはできない。

無教会主義思想に辿りついた日本人であるが故のキリスト信徒としての苦悩がよく理解できる言葉です。

そんな彼が選んだ5人の日本人はストイックな生き方をするという共通点があるように思われます。明治の時代から見た時点での視点ですので、現代を生きる人々から見ると評価は別れると思いますが、ある人は殉教者であり、社会の改革者であり、民に幸福を与える伝道者であり、、コミューンのリーダーであり、そして魂の救済者。すべては日本人が持つイエス・キリストらしさなのかも知れません。                   

2011年10月27日木曜日

今こそ「学問のすゝめ」 福沢諭吉著(岩波文庫)

明治5年2月第一編 初版での端書

このたび余輩の故郷中津に学校を開くにつき、学問の趣意を記して旧く交わりたる同郷の友人へ示さんがため一冊を綴りしかば、或る人これを見て云く、この冊子を独り中津の人へのみ示さんより、広く世間に布告せばその益もまた広がるべし、との勧めに由り、乃ち慶応義塾の活字版をもってこれを摺り、同志の一覧に供うるなり。

明治4年羊12月

福沢 諭吉 
        記          
小幡篤次郎                                                                               
 
                             



既に読まれた方はご存知かと思いますが、「学問のすゝめ」は明治5年2月の第1編を皮切りに
同9年11月の第17編をもって終わり合本として明治13年に出版されています。福沢自らの序にも当時の日本の人口3500万人のうち第1編の真偽版本を22万冊として国民160名の内一人は必ずこの書を読みたる者なり。と記しています。明治13年迄には70万冊が売れたようですので大ベストセラーだったことが窺われます。

最終的には明治期で300万部以上との一部資料もありますので、当時の状況を考えても驚異的な数字です。しかし、驚くのはその数だけではなく、その内容そのものです。  

明治初期の知識人(江戸時代に漢学を音読で学んだ人は語学に対する吸収力が高いということを明治大学教授の齋藤孝氏がラジオ番組で発言されていましたが)の見識には驚かされます。
この本の中でも”学問”とはただ単に文字を読むだけのものではなく、有形無形の生きる術を学ぶべきことをそう便宜上使ったというようなことを記しています。   

特に第3編では 
  1. 独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず。
  2. 内に居て独立の地位を得ざるものは、外に在って外国人に接するときもまた独立の権義を伸ぶることを能わず。
  3. 独立の気力なき者は、人に依頼して悪事をなすことあり。 
その言葉は明治の初期ではなくまさしく今求められていることです。”それは自己責任”というような他者と自分自身の距離を保つために便宜上使われる意味ではなく、自分自身の気概を示す意味です。


そして第4編 学者の職分を諭すではこう結論づけています。

今の学者、この国の独立を助け成さんとするに当たって、政府の範囲に入り官に在って事をなすと、その範囲を脱して私立するとの利害得失を述べ、本論は私立に左袒したるものなり。すべて世の事物を精しく論ずれば、利あらざるものは必ず害あり、得あらざるものは必ず失あり、利害得失相半するものはあるべからず。我輩固より為にするところありて私立を主張するに非ず、ただ平生の所見を証してこれを論じたるのみ。

福島の原子力問題でテレビで盛んに安全性を発言していた御用学者の先生にも聞かせてあげたいくらいです。

他にも、第7遍 国民の職分を諭す。第8編 我心をもって他人の身を制すべからず。第11編 名分をもって偽君子を生ずるの論。第13編 怨望の人間の害あるを論ず。第14編 心事の棚卸。第15編 事物を疑って取捨を断ずる事。 第17編 人望論等、今現代に読んでも充分に必要とされるべきことが記されています。

以前、中津城を見に大分を旅したことがありましたが、当時は、まだ「学問のすゝめ」も「文明論之概略」も読んでいませんでした。地方の一下級藩士であった福沢諭吉の先見性には改めて感心させられました。


       

2011年10月26日水曜日

ゲストハウス(B&B) コトニ   アルバニア ジロカスタル

Kotoni Guest House

Lagjia Palorto Rruga Bashkim Kokona No.8 Gjrokaster Albania

Tel/Fax+355(0)84263526

 E-mail info@kotonihouse.com

Website://http://www.kotonihouse.com//

                                                                                 
                                                                                                                                                                            
2007年9月ロンドン経由でアルバニア国内周遊時サランダよりバスで到着。ジロカストラのまち自体にホテルもそれほど多くはなく、城塞に近く最も歴史が古いエリアにあるゲストハウスコトニへ事前にアルバニアホリデイズを通して予約。最新のサイトを見るとリニューアルしたのか驚くほどきれいになっている模様、部屋の内部が?(内心半信半疑)因みにゲストハウスに宿泊するのは香港の重慶大厦(チョンキンマンション以来数十年ぶり。                     ティラナ2泊→デュラス1泊→ヴロラ2泊→サランダ3泊→ジロカストラ1泊→ベラト2泊→シェンジンニ3泊《前後ロンドン2泊》                                                                                                                                                                                                                                            
  
                                                         
                                        2005年ジロカストラの博物館都市としてユネスコの世界文化遺産。その後ベラトが拡大され登録されます。サランダの少し奥にあるブトリントの世界遺産と並び国内での貴重な観光地です。                 故エンヴェル・ホッジャ第一書記、世界的に著名な作家イスマイル・カダレがジロカストラ生まれです。人口約2万3千人。                                   
                                                                             
夜になると何故かムード歌謡調な電飾が煌く?
ゲストハウス コトニは1992年から営業を始めた家族経営のアットホームな宿です。バルカン諸国の中で2番目?に規模の大きい城塞に急な石畳の坂道を登ると直ぐに辿り着くことができます。

コトニまではさすがに国道からは険しい石畳の坂道が続くので行き帰りとタクシーでを利用。途中で乗り合いタクシーのように地元客を乗せ料金を見ていると地元客は外国人の半額料金のようでした。
                                                                           
ダイニングルーム(ホテルWebsiteより)
                                                  
主人は英語も流暢で、翌日の朝食も自ら用意をしてくれ、トルコ風のコーヒーがとてもおいしかったです。部屋数が5室しかないのですが、宿泊客の評価は全体的に高ポイントのようです。昼食や夕食も家庭料理を低価格で提供しているようでした。

 城塞から見た山側斜面の風景。ジロカスタルでは四年に一度全国規模の民俗学のフェスティバルが行われるそうです。城塞内には2004年当時のステージの残骸が一部そのままにされて残っていました。この翌年実施されたようです。                                                                                                                                                          
城塞内の入場料は200レク。1階は薄暗く兵器博物館になっています。                                                          
 眺望の良いレストラン(Fantazia)で昼食兼夕食。1992年迄ここにエンヴェル・ホッジャの巨大像と台座が聳え建っていたいたそうです。今は跡形もなく駐車場に変わっています。 
アルバニアの地酒度数の強いラキを飲んでみます。ウイスキーやウオッカも好きですので難なくクリア。                                  
       










続いてはグリークサラダ。付き物のパンがとてもおいしくこの後2個頂きました。
アルバニアのローカルフードのQafaを頂きました。ハンバーグに近い料理です。香辛料の香りが程よくおいしいでした。隣はピラフのようなもの。 
                         
                                                                       





 お隣のベラト産のメルロー種のワイン。アルバニのワインは手頃な値段ですが、存外おいしいです。最後はエスプレッソで終了。〆て1870レク。
若い主人は話し好きのようでいろんなことを話してくれました。城塞にある米軍機は1957年に不時着した偵察機であることなど…

謎が解けた城塞に放置されている米軍機


2011年10月25日火曜日

ホテル ペリカン  モンテネグロ ヴィルパサル

Hotel "Pelikan"(1960)-Virpazar

Zarka &Toman Zec 81305 Virpazar Montenegro

Tel: +381(0)81711107
Fax:+381(0)81711011

E-mail:pelikanzec@com
Web site:www.pelikan-zec.com/





2007年4月にフランクフルト経由でモンテネグロとアルバニアを訪問したときに、アルバニア側のシュコダル湖へ行けなかったので、モンテネグロのウルチニ(アルバニア人街)から首都のポドゴリッツアへ向かう途中の小さな町(ヴィルパサル)で下車した時にホテルの客引きのおじさん(実はこちらもおじさんですが)に案内され連泊した宿です。

一帯は1983年に国立公園に指定されていて、約270種の野鳥と渡り鳥の宝庫だと云うことです。特に名前の通り”ペリカン”の飛来地として南ヨーロッパ唯一の生息地として有名らしいです。

モンテネグロ側ではスカダル湖と呼ぶようです。1/3がモンテネグロ。2/3がアルバニアの領有になっており、元々は北アルバニアの都市シュコダルから名前を取ったようですのでシュコダル湖で統一します。

私はオフシーズン期でしたので予約なしで宿泊できましたが、宿で知り合ったイギリス在住の夫妻に伺うと、存外人気のあるホテルというか、ホテル自体が少ないので事前予約が必須だと力説されてしまいました。                                                                                                                                 

 レストランでは先程私を案内してくれた髭おじさんが”獲ったどー”と云わんばかりに自慢顔です。シュコダル湖ではうなぎや鯉が沢山獲れるそうです。                                    夕食は魚介スープにミックスサラダ、鰻の素揚げ、果実、デザート、赤ワイン(グラス四杯)を頂きました。約18€。部屋は少し狭いですが一人には充分です。トイレ・シャワーも使い勝手が良く清潔でした。                                                             
部屋でまどろんでいると、レセプションにいた女主人が明日朝8時のボートツアーの案内にやって来ました。参加を申し込み明日に備え早めに就寝。
                                                          参加したのは昨日知り合ったイギリス人の夫とロンドンで暮らす日本人女性と陽気なイタリア人夫妻と私の5人。そして寡黙なモンテネグロ人の船長(小さなボートですが)です。 残念ながら2時間の間にペリカンとの遭遇はありませんでしたが、和気あいあいとした楽しい時間でした。                                              
 モンテネグロ産のシャルドネワインはフルーティでおいしい!国民的ビールのNikももちろんおいしいですが。うなぎは日本の蒲焼に慣れ親しんでいるのでやはり少し違和感を持ちましたが、それなりにおいしいです。                           ホテルから朝散歩に出ると、広場のような所がありました。またホテルペリカンの真横には小さなマーケットがあり、そこでミネラルウォーター2本と果実100%ジュース3本とプレーンヨーグルト1個を買いました。2,5€。翌日チェエクアウトをすると朝食込み二泊分とボートツアー分を入れて75€。二日目の昼食、二日分の夕食は別料金。                                                         
                                                                                  


                                       ホテルからヴィルパサル駅まではゆっくり歩いて約15分。駅長はセルビア語しか話せないようでしたが、ポドゴリッツアと言うと、紙に10時38分にポドゴリッツア行きがあると教えてくれました。                                    日本人なのかと聞くので、そうだと答え、ペリカンホテルに泊まっていたんだと言うと、親指を立て、Good?かと聞き返してきたのでVery Goodと答えると顔が和らいだ。時刻表はあまり正確ではなさそうでした。まあ日本がある意味異常に正確すぎるのかも知れませんね?        

昔オランダを旅した時にあちらの人は大柄な人が多く。便器の高さがあまりにも高く驚いたことがありましたが、モンテネグロの人も大きい人が多いように思われます。水球やバスケットボールが盛んなのも納得です。

前日にホテルのレセプションでチャンピオンズリーグのローマ対マンU戦を観戦していると(ローマにモンテネグロ人の選手がいるので)元船乗りだったというスタッフの人が横浜と神戸に行ったことがあるらしく、日本人は小さい人が多くて驚いたと言っていたことを思い出しました。

試合はホームのローマが1対7で惨敗でした。何故そんなことを書いたのかと言うと乗車ステップの位置が私にしてみるとすごい高い位置で列車に乗り込むのにみ一苦労です。中にいた乗客が私の手を引き上げてくれてなんとか乗車。


車内の客室はヨーロパに多いコンパートメントスタイルです。意外と空いてる客室がなく奥へ進みます。

三人の大柄の男が熱く語っている客室へ。なんとか席を確保。タバコの煙がもうもうとしている状態がポドゴリッツア迄続きました。






確かこちらがポドゴリッツア鉄道駅。閑散としています。事前情報ではアルバニアへ国際列車があるかも知れないと云う話でしたが線路は繋がっているようですが?列車はないとのことで結局私はタクシーで国境まで向かい、歩いてアルバニアへ入国しました。

今となっては懐かしい思い出です。



 隣接するバスターミナル。主要都市へここから出発できます。ミニバスが多いですが、本数はたくさんあります。因みにポドゴリッツア中心部はここから少し距離があります。私は散歩がてらに何度も歩きましたが…

余談ですが、アルバニアへはここからバスでウルチニへ向かい、そこからシュコダルへ向かうのが正解?かも知れません。費用的には一番安いと思います。 

2011年10月24日月曜日

こころに残る建築物 豊橋公会堂


設計者 中村興資平

愛知県豊橋市八丁目通二丁目22番地
1931年竣工。鉄筋コンクリート三階建て大ホール/客席601席(2階469席/3階132席)当初は1005席
外観はロマネスク様式をベースに、四羽ずつの鷲が見守る左右二対の半円形ドームはモザイクタイルでイスラム風建築をも彷彿させるユニークな公会堂。

幾分権威的な意匠は歩兵第18連隊があった軍都豊橋の象徴としての役割があったのかも知れません。

学生時代4年間名古屋市に住んでいたのですが、豊橋をちゃんとした形で訪れたのはこの時が初めてでした。当初の目的は吉田城訪問の予定が日曜日以外は見学不可能で予定変更。




豊橋空襲でも焼け落ちることなくずっと豊橋のまちを見守り続けた鷲たち。

豊橋公会堂の変遷
1931年 竣工
1945年 市役所の機能が移転
1948年 中央公民館として
1969年 市民窓口センタとして
1980年 再び公会堂として
現在 国の登録有形文化財 



ここに建つ二羽の鷲は1931年(昭和6年)公会堂建設当時のものです。ずっと豊橋のまちを見守り続けてきました。鷲たちの翼を広げる雄々しいその姿を公会堂のシンボルとして残していくつもりであります。


平成14年2月

とプレートに記されています。


エントランスの壁面は一部幾何学模様のモザイクタイル貼り。

愛知県もやはり、尾張地方(名古屋市含む)と三河地方(岡崎・豊橋等)と文化圏が違います。境川が境界線。言葉もかなり違うように聞こえます。
さらに三河も、西三河、東三河では微妙にまた違いがあるように思われます。豊橋は東三河の中心都市。生活圏はお隣の県の静岡の浜松市に近いようです。




毎週日曜10時~15時一般見学可能
当初訪問目的の吉田城(豊橋城)

愛知県豊橋市今橋町豊橋公園内
築城者:牧野古白 主な改修者:池田輝政
築城年:1505年
廃城年:1871年
天守構造:なし
遺構:石垣。土塁、堀
再建造物:模擬鉄櫓